「トイレの神様」に羞恥心の有無を問う。
私は、自分の考えを他者に向かって述べる時には、自分にそれを発言する必然性があるか、その場に私の発言が必要かどうかを確かめてから、発言します。何故なら、自分にとっての必然性も無く、周囲からも必要とされない発言は、場違い且つ自己満足の嘔吐に他ならないからです。
芸術について私の考えを述べます。芸術には、明喩と暗喩が必要です。芸術であるからには、再三再四の鑑賞に耐えるだけの、新たな発見と驚きが何層にも塗りこまれた、重層構造であるべきです。そうした作品を提供出来る才能ある天才を我々は芸術家やキチガイと呼ぶわけです。
「トイレの神様」という曲が流行しているそうです。ショッピングモールの中で掛かっているのをきいたことがありますが、その低俗で醜悪なことに激しい羞恥を感じ、耳を押さえて走って逃げだしたくなりました。この曲を聴いて「良い曲だ」と思う人は、こんな一般公開嘔吐のような曲を聞かなくても、便器や老婆を見て、自分の中で幼年時の体験を反芻して涙し、「トイレをきれいに!」という張り紙を見て、幼年時の感慨に涙すればよかろうと思います。でも、それをショッピングモールで堂々と無辜の民に強制するのは恥知らずだと思います。
少なくとも、何ら芸術性のない歌詞を、何ら芸術性のない放屁のような旋律に乗せて、何も悪いことをしていない一般通行人に無理やりに聞かせ、いわれのない羞恥で気分の悪い思いをさせるのは止めて頂きたいと思います。
私は、音楽は80年代の重めのブリティッシュポップスを繰り返し聞いており、文学は70年代の日本の小説や評論を未だに繰り返して読んでおります。日々、新たな発見があるので、次の時代の作品に進めていません。従って、私の愛読書の作者は大抵が既に死んでおり、その意味で私は、新たな発見をする度に、死者との新たな意思交流を楽しむ週末を楽しんでいます。私にとって、これらの死者は未だ死んでいません。
逆に、私にとって、生きているように見えるけれど既に死んでいる人も沢山居ます。私にとって、なんら新たな意思交流の可能性のない方々は、既に死んでいます。「トイレの神様」を聞いている人、或いはそれを芸術として容認する人は、私にとって既に死んでいます。
出しぬけですが、私が昨年冬に毎週通いつめたサンメドウズスキー場に、今年は昨年より更に雪がありません。昨年のオープンは今週末見当だったのですが、今年は雪がゼロなので来週末に延期になったようです。サンメドウズにはライブカメラがあるので、時々見て「あぁー雪が無いなぁ。一面の枯れた芝生だなぁ。去年は毎週通ったなぁ。孤独で面白かったなぁ。」と感慨に耽っております。http://www.sunmeadows.co.jp/contents/livecamera.html
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You are absolutely right. In it something is also to me it seems it is very excellent idea. Completely with you I will agree.
Bonjour Monsieur Uhren;
Je ne sais pas qui vous êtes, mais j'apprécie vraiment votre compliment. Je n'aime pas juste la manie de basse qualité que nous avons forcé à goûter si nous regardons televison au Japon. C'est une de la raison pourquoi je n'ai pas de poste de télévision moi-même.
投稿: swiss uhren | 2010年12月19日 (日) 00時38分